保戸島について
保戸島は大分県津久見市の四浦半島の先端に位置する、周囲4.0Kmの小さな島です。
島の歴史は古く、景行天皇が東征の折に腰掛けたといわれる岩や、京都の上賀茂神社の分霊を祀った加茂神社などがありとても伝統のある島です。
明治中期にはじまったといわれるマグロ漁により、遠くはハワイ沖を中心に延縄漁業という手法を駆使し、マグロ漁の基地として一時代を築きました。
現在でもその遠洋マグロ漁業、そして近海の豊後水道での一本釣り漁業や、海運業など海の仕事をおもな生業としています。
朝4時には起き、夕方7時のNHKの気象情報をみたら寝てしまう漁師さんたちと、元気いっぱいのオバチャンたち。
それに野良猫たちで構成されます。
海からのマイナスイオンと、ゆったりした島時間。迷路のように入り組んだ路地。まったりとした猫達。
片道25分のちょこっとした船旅と美味しい郷土料理を体験してみませんか??
《保戸島の名付け親》【景行天皇の腰かけ岩】
海徳寺下に大きな岩があります。
太古の昔はその辺りまで潮が来ていたとか。
現在は埋め立てられていますが、海の高さを考えると
かなり大きな岩であったことが想像に難くありません。
第十二代天皇の景行天皇(1世紀末から2世紀前半にかけて60年程在位されたそうで、日本武尊ヤマトタケノミコトのお父様)が東征の折に豊後国(大分県)を廻られた際、保戸島にも来られました。その時に腰かけたと言われる岩で、
【景行天皇の腰かけ岩】と呼ばれています。
景行天皇が保戸島の海藻を見られた際、
「なんと美しい海藻なんだ!」とびっくりされて、
≪最勝藻の門 ほつめのと≫という名前を島につけられたのが
「ほとじま」の始まりです。
ほつめのと……ほつめのと……ほと ほとじま
になったそうです。
藩の時代は佐伯藩穂門郷(さいきはんほとごう)と言っていました。
豊後風土記(奈良時代初期720年~740年頃と言われている)に
書かれています。
単純に計算してもおよそ1800年~1900年前の天皇陛下がお越しになったことが1300年くらい前の歴史本に載っていることになります。
悠久の昔から保戸島は「ほつめのと」として存在していたのです。
保戸島まぐろ漁業のあゆみ
明治23年、1隻の漁船が対馬に渡り「かじきまぐろ」を突き、対馬地区で一流の漁師としてその名を博しました
この突棒(つきんぼ)漁業が発展し明治37年には20隻になりました
しかし、この漁業は春期が盛漁であり、春以外の時期の操業を模索し、高知県土佐清水沖にて「びんながまぐろ」や
「めばちまぐろ」が獲れることを知りました
20隻の集団で突棒漁業を行うも、かじきまぐろと違って海面に浮かばず良い結果が出ませんでした
そこで、はえなわ漁具を使用することに着眼し、個人では難しい漁具の購入を共同で行いまぐろ延縄漁業に転換したことが
保戸島まぐろ漁業の始まりです
大正・昭和と時代は進み、昭和55年には隻数167隻、年間漁獲量21829トン、年間漁獲金額約134億円
平成2年には140億円の水揚げを誇りました
今日の平成29年には国際的な漁獲量の規制や、原油高、後継者不足などにより隻数15隻、年間漁獲量2329トン、
年間約15億円の水揚げを擁するに至っています
漁場は、カロリン諸島、中南海域、日本近海が主となっています
まぐろ船豆知識
保戸島には19トン型と59トン型の2種類のまぐろ船があります。乗組員は19トン型が4~5名、59トン型が7~8名です。
現在は外国人労働者も従事しています。
船の後部にはカプセルホテルの様な半畳程度の空間があり、乗組員はそこで寝起きしています。風呂は昔は海水を沸かしたものでしたが今は整水器で海水を水にして入ります。
食事は3食たべますが操業中は交代で素早くたべます。
それぞれテレビもあり、家族が撮りためたDVDなどを持っていくこともあります。
行きは甘いものが減らないけれど帰りには疲れて全部無くなるそう。
かずまきもこうして食べられて来たのですね。
海の男の仕事場
70トンのまぐろ船は1航海が40日程度です。
三陸東沖までは1週間、カロリン諸島まで行くには10日程度かかります。
操業は午前3時投縄開始、5時間かけて約2500本(6秒に1本)
長さにして45~50マイル(80~90㎞)の仕掛けを投入します。
終了後午前8時頃から朝食・入浴(海水風呂)・休憩をとり
午前11時から上げ縄を始めます。ここからは13時間休憩なしで
まぐろを上げ続けます。(漁があるときは14~15時間かかることも…)漁が終わるのは夜中の12時を回ります。それから
食事・入浴を済ませて午前3時から又、漁が始まります。状況により「入れず適水中」といい、漁場を変えることもありますが
こういう作業が10日も続くことがあります。
大変過酷な作業です。